この記事は、以前に書いた公教育の目的は、才能や個性を伸ばすことではない No.1
の続きになります。
私は、公教育の目的は以下の事をできるようにすることだと考えています。
- ルールを守る
- 相手の気持ちを考える
- 読み書き計算
- 論理的に考える
前回の記事では、私が考える教育の目的と「ルールを守る」ことを教える大切さについて書きました。
今回は、その続きについて書いていきます。
相手の気持ちを考える
忖度(そんたく)と聞いてあなたはどう感じますか。
最近は、忖度という言葉がすごく悪く使われているような気がします。
忖度ってそんなに悪いことなのでしょうか?
私は、「忖度」できることは日本人のいい所だと思っています。
「忖度」を広辞苑で調べてみると、「他人の心中をおしはかること」と書いてあります。
相手の気持ちを考え行動することは悪いことでしょうか?
おもてなしという言葉が流行語になりましたが、相手の気持ちを考えずに「おもてなし」は成立するのでしょうか?
相手のことを考えることができることは日本人の良さです。
「おもてなし」は、相手の事を考えることができるからこそ生まれた考え方だと思います。
そして、その「おもてなし」が世界で称賛されていることからも、「相手のことを考えられることは日本人の良さ」だと私は思っています。
社会生活を送る中で、「話し合って何かを決める」ということはとても大切なことです。
話し合って何かを決める際には、相手の気持ちを考えることはとても大切なことです。
相手が違う考えを持っているときに、どうしてそう考えているのかをお互いに考えることなしに話し合いは成立しません。
気に食わないから殴る
自分が歌いたいから図書館でも歌う
あいつは間違っていて自分が正しい
そういった人たちで街が溢れても気にならないでしょうか?
学校という場所での共同生活を通して、相手がどう思うか、その中でどう行動するのか。
私は、相手の気持ちを考えようとすることを教えることは公教育の大切な目的だと私は考えます。
読み書き計算ができる
日本社会で生きていくのであれば、日本語を読み書きでき、計算ができることはとても大切です。
日本は識字率(文字の読み書きができる人の割合)が高いので、ほとんどの日本人は読み書きができます。
それもあり、日本人は文字を読み書きできることを軽視しているように私は感じます。
また、文字を読むことができることと文章を理解できることの違いについても考えることが少ないように感じます。
また、計算についても最低限の四則計算を多くの人ができるため、日常で四則計算ができることの大切さについて感じることが少ないように感じます。
読み書きができる大切さ
よく選挙の時などに、海外では電子投票が行われているのに日本は遅れていると言っているのを聞きます。
私も、紙に書いて投票している日本は遅れていると思います。
それがいい悪いということをここで言いたいのではありません。
どうして日本では紙に書く投票が変わらず、海外では電子投票に移っているのでしょうか?
私は、日本は識字率が高いからだと考えています。
海外では、話すことはできても文字を書けなかったり読めなかったりする人がいます。
ある程度裕福でないと教育を受けることが出来ない国もあります。
教育を受けることができなければ、文字の読み書きができません。
そういった国では、文字による投票ではある程度裕福な人した参加できず平等な選挙ができないということになります。
日本では義務教育(小中学校)があるので識字率が高いため文字での投票で格差が生まれにくいのです。
このようにほとんど全員が文字を読むことができるため、日本人はその恩恵について意識することが少ないと感じます。
何かを新しく始めようとしたときに読み書きができない人はどうやって学ぶのでしょうか?
テキストを読んでの学習ができないのであれば誰かに読んでもらう必要があります。
「誰かに読んでもらう」もしくは「誰かに録音してもらう」、どちらにしてもお金がかかります。
また、何か契約をかわす際も文字が読めなければどんな契約を自分が結んでいるのかを理解できません。
社会に出て生活をするうえで読み書きができるというのは最低限必要なことです。
ただし、ここで大事なのが文字を読むことができることと理解できることは違うということです。
識字率が高いからと言って読めているわけではない
あなたは次の問題を解けますか?
次の(1)~(3)で確実に正しいといえるものには○、そうでないものには×を入れなさい。
公園に子どもたちが集まっています。男の子も女の子もいます。帽子をかぶっていない子供は、みんな女の子です。そして、スニーカーを履いている男の子はいません。
(1)男の子はみんな帽子をかぶっている
(2)帽子をかぶっている女の子はいない
(3)帽子をかぶっていて、しかもスニーカーを履いている子供は、一人もいない
これは、「AI vs 教科書を読めないこどもたち」という本にかかれている問題です。
この本によると、この問題の対象者のほとんどは大学入試を終えたばかりの新入生のようです。
そして、全体の正答率65.4%だったようです。
ちなみに正解は、(1)○(2)×(3)× です。
このように文字を読むことが出来ることと文章を理解することは違います。
これからの時代は文章が読めないと仕事をうしなうことになりかねません。
このことについては、文章を理解できない子どもたちは、AIに負け仕事を失う <前編>に書いていますので読んでみてください。
公教育では、文字書きができ、そして文章を理解するということにもっと時間を使うほうが良いと私は思います。
計算ができる
では、計算についてはどうでしょうか?
あなたは1日生活している中で数字を見ない事ってありますか?
気温や降水確率、時計、値段やおつり、100gあたの値段、etc.
色々なところに数字は書かれています。
降水確率10%なら傘はいらないか、60%なら持って行こうか、そんな判断を日々されているのではないでしょうか?
ここでは降水確率がどうやて出されているかなどをいっているのではありません。
10%なら降らなさそうだし、60%なら振りそうだとかんじませんか?
それは百分率というものをある程度理解しているからです。
何かを購入するときお釣りの計算ができなければ、だまされることも起こり得ます。
電子決済になるから問題がないと思うのも間違いです。
その機械が意図的に改変されたとしたらどうでしょうか?
日本ではほとんどの人が最低限の計算はできます。
そのおかげでちょっとしたことであれば頭で計算でき、数字がおかしいときに「ん?」と思うことが出来ます。
最近は分数の計算ができない大学生などが問題になっています。
これから数十年後、簡単な四則計算(足し算・引算・掛け算・割り算)ができない人ばかりになっても大丈夫でしょうか?
何かについて話し合うときも数字を使うことがあります。
反対している人がどれくらいいて賛成している人がどれくらいいるかなどについても感覚で認識できるのは、小中学校で算数を学んでいるためです。
計算がある程度できるというのは、社会で生きているためにはとても重要なことです。
このように、読み書き計算ができるということは、意識していませんがとても大切なことです。
文章を理解する事を含めて読み書きができる、そして最低限の計算ができることは、公教育の目的だと私は考えています。
論理的に考える
社会生活をしていく上で話し合うということは大切なことです。
「なんでも話し合えば解決できる」とは私は思いません。
話し合っても解決できない事もあります。
たとえ解決できなくても話し合うことは大切です。
しかし、お互いが論理的に話すことが出来なければ話し合いは成立しません。
「どうして殴ったの?」
「あいつも殴っていたから」
「なんでそんなことしたの?」
「なんとなく」
こういった答えをする人と話し合うことができるでしょうか?
話し合うためには次のことが必要です。
相手を尊重し話を聞く
相手の言っている事を理解するよう努める
自分の考えを論理的に相手に伝える
お互いが納得いく最善策を共に考える
相手の話を聞こうとしない
どこが違う考えなのかを知ろうとしない
なんとなく気に食わないから批判する
批判するだけで代案を出さない
そんな考えでは話し合いにはなりません。
子どものうちに、論理的に考え、相手に自分の考えや思いをどういえば伝わるか、そういったことを学んでおく必要があると私は考えます。
自分だけで生きて行くのではなく、多くの人と社会生活を送るためにはみんなで話し合い物事を決めていく必要があります。
そのために、まずは論理的に考えることが出来るようにする。
これも公教育の目的だと私は思います。
ここまで2回にわたって私が公教育の目的だと考えている事について書きました。
子供達が社会で生きていくために最低限必要なことを教えるのが、公教育の目的です。
ルールを守ることができ、相手のことを考えられ、文章を理解でき、論理的に考えることができる。
これが私は最低限必要なことだと思います。